下記続き。六十年代も東欧のオーケストラが多く調べ物が多くなった。コンドラシン、オイストラフ、ロストロポーヴィチが社会主義体制の優越性を知らしめる文化使節として(?)かつやく。第二次大戦で破壊されたホールなどの再建や、音楽祭の話題など。dancept2.hatenablog.com
今回も(同タイトルで)YouTube にアップされていればそちらを埋め込みで使用している。www.britishpathe.com
England: Title Missing (1960)
いきなりの演奏なしですが英国ツアー中のゲヴァントハウス管弦楽団の歓迎レセプションだそう(ニューカッスル)。説明記事の「スクリプト」には「ライプツィヒ・ガヴァンダオ」(?)とある。聞き取りの文字起こし?(アップされている動画は音声なしですが)。ちょっとイジワルしてますが当地で大人気だったとの記述もあるので訳してみる。
バックグラウンド:世界の偉大なオーケストラのひとつ、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団[Leipzig Gavandhao]がニューカッスルにいます。この訪問はとても人気があり、この街での今晩のコンサートチケットは数週間前には売り切れました。このオーケストラのメンバーは、今朝、レイング・アート・ギャラリーで市長と知事から市民歓迎会を受けました。
指揮者のフランツ・コンヴィチュニー[Frons KONWITECHNY]。今夜のコンサート[convert]は、今回のイギリスツアーでの二回目となります。各地で10回、ロンドンでもう1回のコンサートを行なう予定です。
このオーケストラは180年近く前に設立され、音楽界の偉大な名前のいくつかと関わりがあります。メンデルスゾーン[Nendelsehon]が音楽監督を務め、彼のもと、このオーケストラは国際的な名声を得ました。
ブラームスとメンデルスゾーン[Nendelsehon]のヴァイオリン協奏曲[concerts]とシューマンのピアノ協奏曲[concert]は、このオーケストラにより初演された作品のひとつです。
Invitation To Russia - National Youth Orchestra (1961)
エイヴィン・フィエルスタート指揮ナショナル・ユース・オーケストラ
ポーツマス、ギルドホール。演奏シーンは49秒から『エグモント』序曲、チェロ右翼(かみ手)のストコフスキー配置。フィエルスタートは、フラグスタートがデッカと契約するにあたりカルショーにリリースをねじ込んだ『神々の黄昏』を、この五年前にオスロでレコーディングしたときの指揮者ですね。
下記は上掲タイトルが示している、その後のモスクワ公演の様子。チャイコフスキー五番。オーケストラ配置同上、倍管?。説明記事によれば9月14日。
U.K.: Londoners Acclaim Russian Violinists. (1961)
1961年2月18日(公演)、ダヴィド&イーゴリ・オイストラフ:ヴァイオリン/コリン・デイヴィス指揮イギリス室内管弦楽団 *1
音声なし、ロイヤル・フェスティバル・ホール。44秒、チケット窓口に並ぶ観客が映るが、カメラがリサイタル中止の告知ポスター(3月19、21、29日)からパンする。リヒテル、病気のため。3分26秒、コンサートの告知ポスター、曲目はバッハのブランデンブルク協奏曲第四番、ヴァイオリン協奏曲第二番、二つのヴァイオリンのための協奏曲ほか。ドッペルコンチェルトの演奏は ICA Classics から DVD が出ている模様。3分44秒、リハーサル・シーン。チェロ右翼のストコフスキー配置——そういえば、小編成でもかつてはヴァイオリン両翼がふつうだったのであろうか。なんとなくですが、歴史的にはオーケストラの編成が大きくなったからこその対向配置という気もします弦楽四重奏では(ヴィオラとチェロが入れ替わるのはともかく)見た記憶ありません。
Greece: Famous "Halle" Orchestra In Athens (1961)
ジョン・バルビローリ指揮ハレ管弦楽団
音声なし。A.D. 161年創設というヘロディス・アッティコス音楽堂での公演。オーケストラは40秒、および、のちのスペイン王妃ソフィア王女らの到着に続いて(ギリシアの軍事クーデターは1967年)1分30秒あたりから。映像の状態が悪くわからなかったが説明記事によれば、ソリストに地元のジーナ・バッカウアー(ピアノ)。
Russian Orchestra (1962)
1962年2月1日、イーゴリ・オイストラフ:ヴァイオリン/ダヴィド・オイストラフ指揮
ブラームス/ヴァイオリン協奏曲。説明記事には上記日付の記録となってるが、こちら *2 には、ダヴィドは1962年2月17日にモスクワ音楽院大ホールで指揮者として(公演)デビューしたとあるようだ。チェロ左のヴァイオリン両翼配置か。
Us Orchestra In Ussr (1962)
1962年2月9日、ハワード・ハンソン指揮イーストマン・フィルハーモニア
引き続きソ連での映像、説明記事には "Third Romantic Symphony by Hanson Howard" とあるが、「ハワード・ハンソン」の交響曲『ロマンティック』は第二番(第一楽章の第二主題の部分が映画『エイリアン』のエンドロールに無断使用されたらしい)、映像の演奏は、その第二番の終結部(第三楽章)、というわけで作曲者自身の指揮による、イーストマン音楽学校の学生オーケストラのようだ。ハワードは同校の校長を務めており、このときヨーロッパ・ツアーが行なわれたらしい(Wikipedia 英語版)。
Debussy Centenary (1962)
デジレ=エミール・アンゲルブレシュト指揮フランス国立放送管弦楽団
『ペレアスとメリザンド』、1分49秒から演奏シーンが入る。1962年3月13日シャンゼリゼ劇場でのライヴ録音が Disques Montaigne から CD リリースされている。メリザンドはミシュリーヌ・グランシェ *3 。そのリハーサルか。チェロ左の両翼配置?。
Queen Juliana Attends Concert In Amsterdam (1962)
ベルナルト・ハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
演奏は30秒あたりから。終結部、マーラー『巨人』ということだが音声なし。チェロ右翼のストコフスキー配置。
U.K.: Pablo Casals Rehearses "El Pessebre" Oratorio In London (1963)
音声なし。カザルス夫妻が到着、説明記事にイギリス訪問は18年ぶり、二番目の妻マルタ(27歳)を同伴とある。続いてボールトがお出迎え。49秒から自作のオラトリオ『エル・ペセーブレ(まぐさ桶)』のリハーサル。チェロ右翼のストコフスキー配置。
New Philharmonic Hall In Berlin (1963)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
『未完成』をバックに新ベルリン・フィルハーモニーの完成(オープン)を報じるニュース。説明記事:
ドイツ語コメンタリー、ファイルのドキュメント。
さまざまな G.V. フィルハーモニーホールと呼ばれる、ベルリンのウルトラ・モダンな建物の外観。VS. フィルハーモニーホール内側。
MS. 以前にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮するヴィルヘルム・フルトヴェングラー。
書類[Paperwork]に記載:「我々の影響力の及ばない理由で、オープニング・コンサートを撮影することができないことが判明した。しかし、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の名声に貢献した人物、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーに感謝を込めて、我々の思いは戻る。」
GV. 空の観客席。
オープニング・コンサートは、カラヤンが第九などを演奏した模様。
England: Coventry: Cross Of Nails Presented To Berlin Philharmonic Orchestra. (1964)
(前年新設された)コヴェントリー大聖堂および同所での演奏会の告知、1月28日、『未完成』『エロイカ』の重量級プログラム。演奏シーン少々、チェロ正面から右のストコフスキー配置。
続いて「クロス・オブ・ネイル(Coventry Cross of Nails)」の授与式。説明記事によれば、受け取っているのはインテンダントを務めていた、ヴォルフガング・シュトレーゼマン。同「ショートサマリー」:
西ベルリンとコヴェントリー——第二次世界大戦でもっとも激しく爆撃された二都市——のあいだの、今や双方で友好的に再建された、友情の結びつき。
十字架はドイツ軍の空襲で廃墟となった旧大聖堂の中世の釘からつくられ、「平和と和解の象徴」として授与されるとの由(現在ではレプリカを使用)(Wikipedia 英語版)*4 。
Pablo Casals Concert In Hungary AKA Pablo Casals Concert (1964)
パブロ・カザルス指揮
1963年のロンドンに続きブダペスト、エルケル劇場での『エル・ペセーブレ』。オーケストラ不明、チェロ右/ヴィオラ右翼のストコフスキー配置か。
Japan: The 8th Osaka International Festival Opens Today. (1965)
1965年4月12日、ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団
音声なし、大阪フェスティバルホール。2分12秒過ぎからクーベリックが舞台に現れ演奏が開始される。チェロ左から中央/コントラバス左後列の両翼配置。13日および東京での4月23日、24日の公演は Altus が CD 化している。
1分50秒からの公演告知のピアニストはアラウ?、この年初来日だったようだ。説明記事の「バックグラウンド」にもチリのアーティスト(「西ドイツ、イギリス、イタリア、チリ、フランス、スペイン、日本の七か国から250名以上のアーティスト」)が参加とある。記述は以下のように続く。
[…]今や大阪国際フェスティバルはヨーロッパのエジンバラ・フェスティバルのように世界中で知られており、期間中は日本中の芸術愛好家が大阪を訪れ、各公演は日本全国に放映されます。[…]画像は、さまざまなプログラムが告知された大阪フェスティバルホールの外観で、日本のハイソサエティの紳士淑女が次々と劇場に入ってきます。彼らはバイエルン放送フィルハーモニー管弦楽団[Bayern Broadcast philharmonic orchestra]の演奏に耳を傾けている。
Uk: Queen Elizabeth And The Duke Of Edinburgh At Royal Festival Hall - See Arts Exhibition And Attend Sydney Symphony Orchestra Concert (1965)
音声なし。ロンドン、ロイヤル・フェスティバル・ホール、コモンウェルス芸術祭。1分7秒から指揮者お辞儀シーンのみ。チェロ右後列/コントラバス同最後部ひな壇のストコフスキー配置。
下記は前後したが前年7月、同コンビのシドニーでの前衛的な(笑)演奏。『シドニー交響楽団、子供たちに襲われる』
U.K.: Moscow Philharmonic Orchestra (1965)
音声、演奏なし。モスクワ・フィルご一行がチャーター機(?)でロンドン到着、コンドラシン(このときも夫人は夫を監視、ということか)やオイストラフが同行。説明記事「発行日(ISSUE DATE)」1965年10月7日。このときのロイヤル・アルバート・ホールでのブラームス/ドッペルコンチェルト(10月9日)が BBC Legends から CD 、EMI Classic Archive から DVD 化されている。チェロはロストロポーヴィチ(このフィルムには映ってないような)。
Finland: Benjamin Britten Awarded Sibelius Prizes (1965)
ベンジャミン・ブリテン指揮ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団
音声なし、シベリウス賞の授与式。43秒から受賞者ブリテンが指揮する。けっこう「クセがスゴい」(?)。チェロ右翼のストコフスキー配置。説明記事には "Helsinki Town Orchestra" とあるが、"Helsingin kaupunginorkesteri" の直訳ということでヘルシンキ・フィルでいいのだろう。オーケストラの公式サイト英語版でも "Helsinki Philharmonic Orchestra" と表記している *5 。
Australia: London Symphony Orchestra In Sydney (1966)
音声なし。工事中のシドニー・オペラハウス(竣工:1973年)にオーケストラが到着し、続いてリハーサルの映像。エネルギッシュな指揮ぶり。後ろ姿しか見えないがケルテス?、あるいはコリン・デイヴィス?。チェロ右翼のストコフスキー配置。
Europe's Biggest Concert Hall (1966)
1966年5月23日、フランツ=パウル・デッカー指揮ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団
1940年にドイツ軍の爆撃で破壊されたオランダ、ロッテルダムのコンサートホール、デ・ドーレン(De Doelen)の再建を報じるニュースフィルム。1分12秒からリハーサル・シーン、チェロ右後列のストコフスキー配置?。冒頭から『ダフニス』の「夜明け」流れるが、映像の演奏とは一致していないような(指揮者の気合を入れる声(?)が入ってるオケ全景のシーンはあってる?)。
Choral Performance In Prague (1966)
プラハ、聖ヴィート大聖堂、ハイドン『四季』。27秒あたりから演奏者が現れる。チェロ中央から右のストコフスキー配置。プラハの春音楽祭のよう。
Romanian Concert (1967)
ブカレスト、パレスホール。十八番の(?)『トッカータとフーガ』、エグい(要するにすばらしい)。1958年の映像はコーダ部分だったのでやや一本調子な場面だったが(「その三」参照)、こちらでは十本指タクトを駆使してオケを統率するようすがよくわかります。ヘンテコリンな配置してないか期待したがオケはあまり映らず。
Russian Concert At Train Depot In Moscow (1967)
モスクワの停車場車庫での演奏会。ショスタコーヴィチ『祝典序曲』、チェロ右翼のストコフスキー配置。
United Kingdom: Sir Malcolm Sargent Dies In London At 72 -- Recent Film. (1967)
1967年9月、マルコム・サージェント
「発行日」10月3日、同日死去したサージェントの訃報。映像は、この年のヘンリー・ウッド・プロムナード・コンサート最終夜に登場し大喝采を浴びるシーン。この「ラスト・ナイト・オブ・プロムス」公演は1947年以来サージェントが指揮を務めていたが、この年は胆嚢の手術を受け挨拶のみということだったようだ。説明記事欄には彼が英国でいかに愛されていたかが記されている。Wikipedia 日本語版には、ビートルズとのエピソードが紹介されていた(マーク・ルウィソーン『ビートルズ/レコーディング・セッション』)。
"George Enesco" Music Festival - Rumania (1967)
キリル・コンドラシン指揮モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団 *7
ラドゥ・アルドゥレスク(Radu Aldulescu):チェロ/クルト・マズア指揮ジョルジュ・エネスク・フィルハーモニー管弦楽団
ズービン・メータ指揮ロサンジェルス・フィルハーモニック
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ:チェロ/エマヌエル・エレネスク(Emanuel Elenescu)指揮ルーマニア放送交響楽団
イオン・ヴォイク(Ion Voicu):ヴァイオリン/アンタル・ドラティ指揮ジョルジュ・エネスク・フィル
ヴァン・クライバーン:ピアノ/ミルチャ・バサラブ(Mircea Basarab)指揮ジョルジュ・エネスク・フィル *8
ルーマニアに戻ってジョルジュ・エネスク音楽祭。上掲ラテン語併記は地元の音楽家。タイトルバックに続いてコンドラシン。エネスクのルーマニア狂詩曲第一番、指揮棒なし。続いてアルドゥレスクのチェロ、マズア指揮でハイドン。説明記事にオケへの言及はないが、ルーマニア語の音声コメンタリーはフィルハーモニカ・ジョルジュ・エネスクと言ってるようだ。
オイストラフのシューベルトのソナタに続き、メータ指揮のロス・フィル『エロイカ』、チェロ右/コントラバス右後ろのストコフスキー配置。続いてロストロポーヴィチのソロでサン=サーンス、音声コメンタリーが言っているのは、共演にラジオテレビ交響楽団[Orchestra Simfonică a Radioteleviziunii]すなわち放送交響楽団 *9 、指揮エマヌエル・エレネスク(Wikipedia ルーマニア語版)か。
さらに、説明記事から落ちてるがドラティ指揮でメンデルスゾーン。ヴァイオリンにイオン・ヴォイク、オケにフィルハーモニカ・ジョルジュ・エネスクと言ってるようだ。チェロ右翼のストコフスキー配置?。最後にクライバーンのソロでラフマニノフ三番、指揮はミルチャ・バサラブで、オケはバサラブが常任指揮者を務めていたジョルジュ・エネスク・フィルである模様。最後の追い込みアルゲリッチなみに早い。
Centenary Of Bucharest Philharmonic AKA Centenary Of Philharmonic (1968)
ミルチャ・バサラブ指揮ジョルジュ・エネスク・フィル *10
続いて1968年のブカレスト、オーケストラの百周年記念の演奏会。演奏シーンは29秒から、エネスクのルーマニア狂詩曲第一番。チェロ右翼のストコフスキー配置。
Conductor Ionel Perlea In Rumania (1969)
イオネル・ペルレア指揮
またまた翌1969年のブカレスト、ルーマニア狂詩曲。パテのサイトの説明記事「ショートサマリー」に「著名な指揮者、イオネル・ペルレアがルーマニアに帰国」とある。小生このかた存じませんでしたが(汗)、この里帰り公演は一部 CD 化されており(ERT 1037/38)、発売元のサイトに経歴紹介がある。
イオネル・ペルレア(Ionel Perlea, 1900 - 1970)は、戦後イタリアに移り、トスカニーニに認められスカラ座などでも活躍、アメリカでもメトロポリタン歌劇場や NBC 響などで指揮し、マンハッタン音楽学校で教鞭をとっていたとの由。飯守泰次郎氏は同校に留学しており、『トリスタンとイゾルデ』のレッスンの想い出などが綴られている *11 。戦前はブカレスト歌劇場の監督も務めたようだ *12 。
晩年、脳卒中を患い、この動画でも左腕だけで指揮している。動画タイトルバックのコンサート告知には5月10日が含まれており、上の CD では同日のオーケストラはジョルジュ・エネスク・フィル(ブラームスの交響曲第一番を収録)。チェロ右翼のストコフスキー配置。
Edinburgh Festival (1969)
エジンバラ音楽祭。演奏シーンなし、7秒からアッシャーホールの告知。アレクサンダー・ギブソン指揮スコティッシュ・ナショナル管弦楽団、BBC スコティッシュ放送管弦楽団 *13 に続き、ロンドン響。指揮はイッセルシュテットとアバド二日ずつ。前者のソリストにバリー・マクダニエル(バリトン)とパールマン、後者にはキャサリーン・ゲイヤー(ソプラノ)とアルゲリッチ。
(つづく)
*1:こちらの動画では1964年になっている。
*2:Артур Штильман, Сыновья… К 80-летию Игоря Ойстраха[アーサー・シュティルマン、「息子たち...イーゴリ・オイストラフ80歳に」](ロシア語)7iskusstv.com
この前にブラームスをメロディアにセッション録音を行なったとの記述もあり、これはダヴィドの指揮を集めた CD に、録音データ1960年、モスクワ放送交響楽団として収録されたもののことかもしれない(MEL CD 1001955)。さらに1960年末から61年にラロ『スペイン交響曲』を録音したとの言及があるが、上記 CD に収録されているもののデータは1963年。Artur Davidovich Shtilman はモスクワ出身のヴァイオリニスト。ボリショイ劇場、のちにメトロポリタン歌劇場に所属したらしい。
*3:
*4:ブリテン『戦争レクイエム』は旧大聖堂に隣接して建てられた、この新大聖堂の献堂式のために委嘱され、前年5月30日に同大聖堂で初演された。
*5:helsinginkaupunginorkesteri.fi
*6:説明記事にはルーマニア旧英語表記で "Rumanian Radio Orchestra"/ルーマニア放送管弦楽団とある。ルーマニアの(現)"Orchestra Naţională Radio"、すなわち国立放送管弦楽団のこととおもわれるが、英語で "Romanian Radio Symphony Orchestra"、日本語ではルーマニア国立放送交響楽団という表記をけっこうみかける。同一団体なんでしょう、たぶん。Discogs には、1990年以前には "Orchestra Simfonică a Radioteleviziunii Române" と名付けられていた、とあった(+名前の「バリエーション」欄に長いリスト)。www.discogs.com
こちらの演奏会リストに "Romanian Radio and Television Orchestra" で記載があった。1月19日。web.archive.org
*7:記事欄には "Moscow State Philharmonic Orchestra"。ヴェロニカ・ドゥダロワが主席指揮者を務めていた "Московский государственный академический симфонический оркестр(モスクワ国立アカデミー交響楽団)" すなわち "Moscow State Symphony Orchestra(モスクワ国立交響楽団)" もあってややこしいが、コンドラシンということで "Академический симфонический оркестр Московской филармонии(モスクワ・フィルハーモニック・アカデミー交響楽団)"、英語表記 "Moscow Philharmonic Orchestra" でよいのだろう。なお、この年このコンビは来日し、4月16日東京でのマーラー九番を Altus が CD 化している。以下演奏データについては下記 *8 リンク先参照。9月19日、ブクレシュティ ラジオ・コンサート・スタジオとの由。
*8:指揮者は音声コメンタリー何度も聞き返してなんとか聞き取ったのだったが、こちらのサイトにオーケストラ名も記載されておりました。9月9日。kondrashinarchives.blog.fc2.com
*10:説明記事には "Bucharest Philharmonic Orchestra"、百周年記念ということで1868年創立の、1955年にエネスクの名が冠されたオーケストラでよいのだろう。
「フィルハーモニックの歴史 | FGE 」(英語)www.fge.org.ro
*12: VOX や RCA などにかなりの録音もある。こちら MusicWeb の記事が(やたら)詳しい。
クリストファー・ハウエル「忘れられたアーティスト - 18. イオネル・ペルレア(1900 - 1970)」(英語)www.musicweb-international.com
*13:BBC Scottish Radio Orchestra。BBCスコティッシュ交響楽団(BBC Scottish Symphony Orchestra)とは別団体、1981年解散(Wikipedia 英語版)。