dancept2の日記

あやしうこそものぐるほしけれ

ジョアン・ジルベルト

「ヴォーカルはギターに楔のように打ち込まれなければならない」*1

ジョアンの来日公演は三回とも一度ずつ観ている。大きな会場、ステージにジョアンがひとり、ぽつねんと椅子に座る。あの「声とギター」、いま思うに何かまぼろしのような。

平日仕事で開演に三十分ぐらいだったか間に合わないときがあったのだが、会場に着くと(東京フォーラム)やはりまだ開演していない。やがて場内アナウンス、「オーティストは、ただいまホテルを出たところで…会場に向かっています…」(云々)——宿は会場から近いことも想像できたが——場内ブーイングどころか爆笑となった。

途中、当方も寝てしまったのかとおもったものだがそうではなかったらしい。上掲は名盤モントルーの映像。(とうぜんジョアンはモントルーと比べていたわけでは無いだろうが)たしかに会場の雰囲気はえらく違っていた。アンコールに入って鳴りやまぬ拍手にギターを抱え俯むいて微動だにしない。やがてスタッフがステージに現れ肩を叩くと顔をあげ頷くが、鳴りやまぬ拍手にふたたび俯むき拍手に聴き入るジョアン。伝説の(?)フリーズ事件にも居合わせたのでありました。

ありがとうジョアン、R.I.P.


*1:だったかな、出典も忘れてしまい…(とほほ)。

「ラウドネス等化」って…Windows 10 のサウンド設定

当方の PC 、酷い音で再生していたことが判明、原因は再生機器の「拡張」設定の「ラウドネス等化」であります。これは一大事とググってみると、けっこうあちこちで指摘されていた… orz が、とにかく劇的に改善したので、こちらでもご紹介。

Windows 10 にバージョンアップしてこうなったのか、それ以前からそのような設定(があり、かつ ON )になっていたのかは不明。この設定外すと D/R が広がって小音量の部分が聴き取り辛くなるので、デフォルトでは ON ということなんでしょう *1 。これまでのもやもや、ぼわぼわがすっきり、くっきり。

「等価」ならぬ「等化」って聞きなれない言葉ですが(日本語変換出てこない)、下記掲載の設定画面の「説明:」には、「[…]認知される音量の差を補正します」とある。一般的にオーディオの世界で「ラウドネス」というと高域・低域の音量を上げるので、それによる「等化」ということ?とおもったのだが、「ラウドネス」に加えてコンプレッサーも掛かっており、「ラウドネス」プラス「等化」ということのようにもおもえる。


タスクバーのスピーカーアイコンを右クリック →「サウンド」選択 *2

→「再生」タブ選択 →「スピーカー」選択し「プロパティ」ボタン押し下げ

→「拡張」タブ選択

speaker property1

一見サウンド効果は設定されていないように見えたりする。選択エリアのスクロールバーを下げると…「ラウドネス等化」が選択されている。

speaker property2

チェックを外す。

皆さん「すべてのサウンド効果をオフにする」にチェックを入れることを推奨しているようなので、一応そちらもチェック。

→ 選択エリアがグレーアウトされるとともに「直接モード」のチェックもグレーアウトされる。「すべてのサウンド効果をオフにする」をチェックするとサウンド効果すべてのチェックが外れるというような入力補助的な動作にはなっていない(サウンド効果チェックしたままにしておいても OK なのだろう)。

speaker property3

「OK」ボタンを押す。ヘッドフォンの設定にも入っていたので、そちらも変更する。


ライン入力で昔のカセットテープ録音を Audacity で取り込んだりしておるんですが、先日久々に作業を行なったところ当方の PC(ライン入力ではなく)マイク入力端子が二か所あることに気づいた。へー、ミキシングもできるってことね、というところで入力設定どうなってんだろうとサウンド周りを弄っていて発見。間抜けなことにライン入力の設定もおそらくデフォルトのままで、Audacity の設定に合わせて変えた方がよさそうなことにここで気付いた…*3

もともとカセット録音とはいえ、PC で聴くとなんか冴えねぇなぁとは感じており、PC 内蔵のサウンドカード(や現状の PC 外付けスピーカー)じゃしょうがないのかぐらいにぼんやり考えておりましたが、けっこうな伸びしろありました。すまん、サウンドカード。

そいや「サウンド」のスピーカー(など)の設定にはサンプリングレート、ビット深度の設定もありますが(「詳細」タブ)、再生時この設定を一時的にソースに合わせてより適切な値に自動変更してくれるしくみとかってないんですかね。複数のアプリからのミックス出力時はダメですが、排他設定で動けば再生ソフト側で実装できそうなもんですが( DSD ファイルなどにも対応してるハイレゾ向けのソフトでは実装されてる?)。一般には WASAPI 排他モードの対応すらじゅうぶん行なわれていないということらしく、当方などの環境含め通常の使用ではオーバースペックということなんでしょうね。


*1:音が出ないトラブルの際にこの設定を ON にすることを推奨する記事も見掛けた(ような気がする…)のだが、この設定程度で音が出るようになったりするものなのだろうか??。

*2:[追記]その後 Windows 10 バージョン 1903 に更新したところ、「サウンドの設定を開く」→(右側「関連項目」の)「サウンド コントロール パネル」選択に変わった模様。また、同じくタスクバーのスピーカーアイコン右クリックからの「サウンドの問題のトラブルシューティング」を実施すると、「オーディオ拡張機能をオフにすると音質が向上する可能性があります。オフにするには、[すべて無効] チェック ボックスを使用するか、個別オフにして、[適用] をクリックします。拡張機能タブが表示されない場合、お使いのデバイスには拡張機能がありません。」との表示が出る(ようになった(?))。

*3:サンプリングレート、ビット深度の設定。ビット深度は Audacity が「強く推奨する」32 ビット浮動小数点ということで合わせきれないが、レートは合うように上げてみた——こちらの設定変更による差は当方の環境、耳では聴き取れませんですが。

拡声器が似合うオンナ

Gunjyobiyori

FIFA 女子ワールドカップ開幕であります。Suchmos のことはなにも知らんのですが(汗)、その前に担当した椎名林檎さんは好きである。このライブ映像もさいきん知ったという次第でファンなどというのもおこがましいものの、今となっては数少ない気になるアーティストのひとりであります。ロック系の音楽聴くのもすっかり少なくなって久しい当方ですがロック魂(?)呼び覚まされました。久々にレッチリの CD でも爆音で鳴らしてみるか(古)。

2017年リリースの『椎名林檎と彼奴等がゆく 百鬼夜行2015』から(だよね)。すばらしい。ステージのスクリーン映写や照明、その映像化も秀逸(監督:ウスイヒロシ)。こちらもすぐ消されちゃうかもですがこの際ということで。

ギターに持ち換え「NIPPON」に雪崩れ込む。ギターソロに突入すると、バックの真っ暗なスクリーンに折り畳まれていたように現れた二つの青い映像がつながってやがて青空になり、たなびく日の丸がせり上がってくるのも最高。わはは。

NIPPON

公式 PV 版の方観たときはそんなでもなかったのだが、やっぱこのはちゃめちゃ感——はちゃめちゃではない——サイコーということでこちらの方も追加 with エレカシ宮本氏(スゴイね)「獣ゆく細道」。今年リリースの2018年ライヴ『椎名林檎 (生)林檎博’18 ―不惑の余裕―』から。

そいえば先日『めざましテレビ』で軽部アナがインタビューしていた。影響を受けた音楽についての質問に答えてマーラーもあげると軽部アナ食いつき、中学時代マーラーに嵌まってたんですよと熱く語り出して椎名さんにやや引かれていた(笑)。「群青日和」はやっぱ東京事変の PV も貼っちゃいましょう。♪しんじゅくは豪雨~、十五年前ですわ。

シュミット=イッセルシュテットの第九(タワーレコード企画の SACD ベートーヴェン交響曲全集から)


TOWER RECORDS: PROC-2072 KING RECORDS: KICC-6025-30
タワーレコード PROC-2072 キングレコード KICC-6025-30

イッセルシュテットタワレコ企画全集、中古盤見つけて思わず入手してしまいました。第五なんかは中学のとき当方が初めて買った同曲の音盤( LP )だったりしたのですが、CD 時代になって LP はすべて手放し、その後全集 CD を入手してもいろいろ個性的な演奏が多いなか、ほとんど再生する機会なかったんですがねぇ。中古とはいえアホですねぇ(呆)。

気になった第九(録音1965年)を聴いてみる——いやな予感。盛大に載ってたような(気がする、後述)ヒスノイズが聴こえない。が、聴き進めるにつれ不安は驚きに変わる。これはすばらしい録音ですねぇ。個々の楽器にぴったりとフォーカスし、それぞれの音色を明快に描き出すいっぽう音像は広く広がり、加えてホールの雰囲気を捉えることにも成功しています。ホルンのベルのビビりまですくい上げ、それが空気を震わせ伝わって来るのが分かるというか。コントラバスがホールと一体になります。四楽章の行進曲風のパートでのジェイムズ・キングのテナー・ソロがしっかり定位しながら豊かなホールトーンを感じさせるところや、女声コーラスの輝かしさもすばらしい。いや男声コーラスもすごい迫力。

いかん。これだけ印象が違うとキング全集の第九のイメージはなにかほかの盤と勘違いしておったのではないかと不安になってくる。前回(上掲)確認しておくんでした。さっそく聴いていみると——んーヒスノイズは気にならないな。勘違いか。しかし、マイクが楽器に近接しているようなかんじは受けませんが音像は手前側に平らに張り付き、楽器の音色も霞んで不明瞭、なにか白っぽいかんじ。ヴァイオリン:かさかさ、バス:ぼんやりに聴こえてしまいますねぇ。楽しくない。タワー盤の奥行は(まともな(?)マスター/マスタリングによる)SACD 化の所為かもしれませんが、キング盤はこの白っぽいかんじがヒスノイズのイメージにつながっていたか。その後のユニバーサルからの再発盤(オリジナルマスターからのリマスターと謳ってるよう)は聴いたことありません。

これは「一新した」といえるのでしょう。当方もなんやかんやと「高音質」盤を入手して(失敗して(苦笑))きたが、これだけ違いを実感したのはフルトヴェングラー/VPO のベト七( EMI )以来かも(?)。

ただし実際には個々の楽器はこんな明快には聴こえないはずでして、DG の一部録音なんかでも顕著ですが、デッカの場合、加えて会場のレゾナンスのそれらしい雰囲気まで備わっているので、逆に嘘っぽさ(?)が目立ってしまうという。デッカの「優秀録音」への批判はそんなこともあったのかなと。

1970年代始めのソフィエンザールでのセッション写真。デッカによるゾフィエンザールでのセッション録音の写真(1970年代初め/バランス・エンジニア:ジョン・ダンカリー)。有名な「デッカ・ツリー」のほかに、いくつかマイクが立っているのが見える *1

また、ことに四楽章ではコーラス/独唱が飽和したりドロップアウトしたりでマスターテープの劣化と思しきところも耳につきます。声楽のひずみはキング盤もけっこうあるので置いといて、ドロップアウトは目立つ部分を双方聴き直してみる——やはりキング盤では確認できません。マスターテープの経年劣化が進んでるってことなんでしょうねぇ。録音から半世紀以上ですか *2

ちなみに確認した場所は上の方で触れたテナー・ソロでして、音質の差が目立ち、実のところ一瞬のドロップアウトなどもんだいになりません。バックの行進曲風のバスドラも、キング盤でも普通に聞こえてますが、こうして比較してしまうと芯がない。

演奏の方は当方などが改めて申すまでもないのでしょうが、弦にアクセントを効かせて独特の推進力を感じさすなど、意外にきびきびとしたキレがあって、こちらもよいです。ことさらフレーズを短く切ったりはしませんが、ここぞというときのフォルテのアタックに瞬発力があり、それもキレにつながっているようです。というかよく聴くとフレーズ内でのこまかい音量のメリハリに気を配っているのが感じられます。

それにやはりウィーン・フィルの響き(明るいですね)がすばらしい。厚みのあるホルンの音色、ヴァイオリン群がずり上がるパートなどたまりません。三楽章後半、金管のファンファーレの少し前にヴァイオリンが音階を駆け上がり続いて上下に刻むパートがありますが、実にチャーミングです。往年のウィーン・フィルサウンド *3 をステレオでという向きには第一にお勧めといってもよろしいのではないかと(ただしキング盤では魅力半減)。ちなみに四楽章コーダ、あれっこんなに速かったっけ、とやや驚きました。

前回感心した第七のディスクは五番とのカップリング。これまた超久々に耳にする五番から通しで聴いた。八番の印象に引っ張られていたのか改めて聴くと意外に男性的。第九と違ってきびきびとした切れというよりゆったりとしたかんじですね。第七をおもえばさも有りなんというところか。後者もすばらしいサウンドに仕上がっていますが、こちらはキングの全集 CD でもじゅうぶん楽しめるとおもいました。

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単発でリリースされたデッカ LP のオリジナル・ジャケットをインレイに封入するなど、どこぞのメジャーレーベルの投げやりな再発に比べ、タワレコさんの意欲をかんじさせるものなのでありますが、以下不満を二つばかり(中古なのに偉そうに)述べますと…。

キングの全集のライナーは、おそらく LP 初出時の再録で、セッションの様子などは貴重なものだともいますが、こちらの相も変わらぬ通り一遍のライナーノーツ/楽曲解説はいただけない。マスターテープの状態やマスタリングの機材、様子についてくわしいレポートを載せてくれた方がよほど興味深い *4 。また、むかしと違っていくらでも情報が溢れてるこの時代、楽曲解説を載せなければならないきまりでもあるんでしょうか。オリジナル・ジャケットにこだわったり SACD を購入したりするユーザー層に一般的な楽曲解説など不要でしょう。どうもここらへんはちぐはぐで、タワーはいちどユーザーアンケートでも取ったらどうか。

二番目はプラケースでして、生産のバラツキによる外れ品に当たったのか、すべてそうなのかわかりませんが(そもそも中古品である)、四/五枚目を裏表に収めるトレーケースがすぐ外れてしまって綴じ直すのが非常にうっとうしい。スペースを取らず(五枚組が昔の二枚組の厚み)たいへんありがたいんですが *5

と注文付けてしまいましたが、ここまで聴いたところではデッカの名録音がすばらしい音質で蘇り、まことによろしゅうございました。そういえば当方の CD プレイヤー( DENON の七年もの)、SACD ハイブリッド盤の CD 層を認識しないことが判明した。最後に CD 層を聴いたのはいつだったかおもいだせないのだが(苦笑)、この全集以外のハイブリッド盤も同じなのでディスクのせいではない。SACD 層が聴けないのに比べればショックは小さいですが…そんなんで、CD 層での比較はできませんでした。


*1:こちらの記事より。翻訳しようかともおもうんですが…。

*2:もっとも、キング盤でもすでにドロップアウトがそれなりにあることに上記以外の場所で気づかされます。

*3:「デッカ/ゾフィエンザールの」ウィーン・フィルサウンド?。

*4:年月日場所の録音データはあるがプロデューサーやエンジニアの名前も見当たらない。なおキングの記載を参照したともおもわれる、セッションの様子への言及がライナーノーツにちょっとだけあった。プロデューサー(二人で、ひとりは七番だけですが)についてはこちらで言及。

*5:気をつけてケースを90度(ぐらい)以上開かなければ外れないことに気づきました。

英グラモフォン誌:カルロス・クライバーのベートーヴェンの第7の録音は、その「古典」の地位に値するのだろうか?(その二)

上掲後半です。AF-C 氏、当方も少なくとも最終小節はアルコの方が好きですが、「けいれん(twitches)」ですか。DG 氏言うように四十年も経過して、その後いろいろな演奏も出てますしね。久々に聴いて失望したと(しかしながら、この記事ではクライバーのライヴ録音以外にはその後出た音盤には言及していません)。DG 氏の反論もいまいち奥歯に…というかんじもあり、最後は何か無理やり盛り上げてるような(笑)。

1981年のロンドンのエピソードもいかにも、というかんじですが、チェリビダッケの日本公演のように BBC  はひそかにテープ残してたりしないのであろうか。


レコーディング、再考...[続き]

私は彼が崇高なストイシズムのようなものを目指して——音楽に痛みがあることを認識しながら距離を置くことを保っているように感じる

アンドリュー・ファラク=コルトンAF-C 私は原典に基づく完全性に対して思い入れがありますが、あなたがクライバーが「長期的視野」をとると言うときの意味は理解していると思います。例えば、アレグレットでは、彼は高貴なストイシズムのようなものを目指して——音楽に痛みがあることを認識しながら距離を置くことを保っているように感じる。それでも私は感動しない。私はむしろいくつかの細部を好みます:たとえば、彼がいかに2分56秒での原シューベルトマッジョーレ部にひそかに滑り込むか。ですがここでさえ、木管楽器のドルチェの指定は手短かに済まされ、オープニングのリズミカルで超自然的な執拗さからの休止が不十分です。あなたが最初の楽章で聴く「戦闘的に持続するリズム」は、作品全体を通して実のところ固定観念であると主張したい。いかにも、第三楽章は真のプレストとして演奏されますが、それは悲惨なほどに、刺激的ではないことに激しく狩りたてます。

デイヴィッド・グットマンDG 演奏は批判を超えていないし、クライバーは確かに魅力を優先させません。あなたはアレグレットの装飾音のスクラッチな扱いが気になりましたか?。私は彼以前の彼の父のように、あるいはクレンペラーのように、クライバーがピチカート弦を最後まで求める最終小節には確かに疑問を抱きます。私は伝統的な弓による読みにプラスして典拠の怪しいリタルダンドがよりうれしかっただろう。とはいうもののクライバーは我々を快適にしようとはしておらず、むしろ空中で終わります。スケルツォでは、滑走することに傾くアンサンブルから彼が得るアーティキュレーションとダイナミックレンジの性質は、私にとってはかなりの注目に値するように思われます。私はその怒りっぽい[splenetic]性質が好きです。何かあるとすれば、私を当惑させるトリオの時代遅れの広がりです。トスカニーニは長引かせることへの拒否ではるかに革新的かつ「現代的」でした。クライバーの DVD バージョンも、より快速です。

AF-C アレグレットのそれらのスクラッチな装飾音は気になります、ええ:それらは軽やかさの強調というよりけいれん[twitches]です。そして、私もこっそりと暗い夜に紛れるピチカート弦のエンディングは気に入りません。それはもう明らかにベートーヴェンが望んでいたことではなく、さもなければ彼はそれらの最後の小節にフォルテを記さなかったでしょう。私はフィナーレに、もっとも説得力のあるクライバーの徹底性を見出だします。理想的には、もっと明暗と遊び心が欲しいですが、それにもかかわらず魅力的です——そして、コーダの響きの轟音は実に爽快です。

DG トスカニーニ以来、誰もその高揚感をそれほどうまく伝えたとは思いません。加速はコントロールの喪失のような印象を与えることがありますが、ここでは、ホルンでさえ不明瞭さは何もありません。このようなコントロールと奔放さの組み合わせは、非常に多くにとって効果的です。でも、あなたにはそうでないかも?

AF-C 何年ものあとにこの演奏に戻り、それが私をいかにわずかしか楽しませなかったかに驚かされました。それは「古典」ですが、おそらくその評判はカップリングによって強化されている?。クライバーの第五の演奏は素晴らしい:バランスをとることと奔放さについての話です——彼の第五は、スリリングであると同時に堂々としています。彼は第七に同様のアプローチをとりますが、この作品は何か異なるものを求めています。クライバーは、リピートの見過ごしやオーケストラの洗練の相対的欠如にもかかわらず、コンサート録音で音楽の本質により近づいています。

DG そうですね、あなたが疑念を抱いてるだけではありません。1981年にクライバーがロンドンとミラノで LSO の公演を率いたとき、英国の評論家はほとんど敵対的でした。ガーディアンに書いたグラモフォンのエドワード・グリーンフィールドは、「何としてでも違うことをすると決心した指揮者」の「挑戦的な誇張と独特の表現」を攻撃していました。傷ついたクライバーBBC にテープを消去させ、英国で別のオーケストラ・コンサートを指揮しませんでした。個人的には、私はバーンスタインなしにしたくありません——早くも1964年にリピートに配慮しています。彼のニューヨークは、クライバーのウィーンより構えず透明で、調性の緊張は劇的に表現され、バーンスタインが「びっくり交響曲」と走り書きしたスコアからの合図による演奏に相応しく、よりユーモアが広がります。我々はきっと平穏さが偉大なベートーヴェンの敵であることに同意できると思います。そして自己中心的とは異うカルロス・クライバーは、断してそうではありません。私にとって、彼の DG の第七は、この上ない「古典」——そして「古典的」——です!。

この記事は当初グラモフォン2018年4月号に掲載された。最新の定期購読サービスについては、gramophone.co.uk/subscribe をご覧ください。


(こちらも前回続き)イッセルシュテットは、手元の CD 国内盤全集(キングレコード)では続けて八番がカップリングされており、そのまま聴いてしまった。こちらもゾフィエンザールでの収録(前年の1968年)で音色、雰囲気は同じだが曲調も異なり、七番のようなピラミッド型バランスにはなっていない。しかし目の覚めるような録音、演奏ですねぇ。音が鮮やかすぎるという印象を受ける向きもあるかもしれない。改めてデータ確認するとエンジニアはケネス・ウィルキンソン。なるほど(七番はゴードン・パリー)。初期の国内プレス CD は国内のアナログマスターでマスタリングされていたのだとおもうのですが、1990年あたりだとどうなんでしょうかね。しかもデッカのアナログ盤は「輸入メタル原盤」が売りで——と、ここらへんはまた別途。

リーフレットの演奏解説もあらためて眺めてみた(小林利之氏)。録音セッションの様子のルポもあり、曲ごとに細かく弦の人数を増減している等の記述があった。しかし七番だけは微妙な評価(苦笑)。この全集タワレコSACD で復刻してるんですね。手元のボックスでは第九(1965年/ジェームズ・ロック)などいささか古さを感じさせる音質で、こんなもんぢゃねーんでないの?とおもったりした記憶が。時節柄聴くのも相応しいですが、またの機会に。いっぽうタワレコのはどうなってるのかチト気になって来たり(苦笑)。

ところでベト七というとこちらがすごい。オケはシュトゥットガルト放送響。再現芸術の究極というか異形の演奏というか。ちょっと変態的ですね(笑)。

英グラモフォン誌:カルロス・クライバーのベートーヴェンの第7の録音は、その「古典」の地位に値するのだろうか?(その一)

“Classics Reconsidered: does Carlos Kleiber's recording of Beethoven's Seventh deserve its 'classic' status?”、ちと古いですが英『グラモフォン』誌四月号より(前半)*1 。なんで今この録音?かといえば「古典再考」というシリーズだそう。


古典再考:カルロス・クライバーベートーヴェンの第7の録音は、その「古典」の地位に値するのだろうか?

グラモフォン 2018年5月14日(月)

アンドリュー・ファラク=コルトンとデヴィッド・グットマン、クライバーのDGへのウィーン・フィルとのベートーヴェンの第7の録音の長所と短所をめぐり意見が対立。

Classics Reconsidered: does Carlos Kleiber's recording of Beethoven's Seventh deserve its 'classic' status? | gramophone.co.uk

オリジナル・グラモフォン・レビュー、1976年9月より...

ベートーヴェン 交響曲第7番

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団カルロス・クライバー(DG)

クライバーの第七交響曲は、彼の第五よりはるかに多くの議論をひき起こすのは明白であり、水路の両岸へ意見を分かつ運命にある、と私は思う。解釈としては、彼の父親のすばらしい読みを綿密にかたどっている(むしろここを弱々しくする、同じく議論をひき起こすアレグレットへのピチカート終結さえある)。だが一般的なスタイルと熱気において、この演奏は1936年の古典的なトスカニーニのセットに倣っている。ウィーン・フィルハーモニー・サウンドでの過剰な音色[excess tone]はかけらも残っていない。シュミット=イッセルシュテットの美しく演奏された(そして優れて文法的な)デッカの読みを際立てている中欧的テクスチャーがなくなっている。録音さえも気後れしているように質素[spare]で単色に思える。フィナーレは、疑いもなく、名演である。私がここで違和感を覚えるのはただ一つだけで、木管楽器が跳躍する第二主題を扱うごとのクライバーの奇妙な緊張緩和である。スケルツォも極めて説得力があり、トリオは遅いが全体は非常に速く、(指示された)ヴァイオリン旋律のニュアンスに欠け、この点ではクライバーの読みをトスカニーニエーリッヒ・クライバーのよりかなり表情に乏しいものにしている。とはいうものの、どうして叙情的な第七にする必要があろう?。クライバーが正しく見抜いたように、それは質素な、アスレチックな作品なのであり、部分的に叙情的なディオニュソス精神の祭典、それでは生気もないではないか?…これは手に入れられ議論されるべき第七である。あなたはそれを完全に納得できる、あるいは完全に説得力のあるものとはしないかもしれないが、我々をこの偉大な作品の本質的な精神に、ときにまごつかせるほど近づける、紛うことのないじゅうぶん稀な現象なのである。リチャード・オズボーン

レコーディング、再考...

アンドリュー・ファラク=コルトン[AF-C] リチャード・オズボーン[RO]は、カルロス・クライバーによるベートーヴェンの第五交響曲の DG の録音(75年6月)に完全に圧倒されていました——無理からぬことです。なるほど、デイヴィッド、あなたと私は2005年4月に遡るまさにこの雑誌で RO の評価とその録音の今や伝説的な地位を擁護し、いっぽうロブ・コーワンは留保を表明しました。今回、ロブなしで、我々はクライバーの第七の価値を再考しています。RO はこの録音にあまり熱心ではなかったし、私自身再び同意見であることに気づきます。確かに、私はクライバーの解釈のエネルギーと力強さを賞賛しますが、それは中途半端に堂々と[monumental]しています。( RO が言及している)ハンス・シュミット=イッセルシュテットは、出来事やキャラクターに満ちているとともに、より遅くて壮大です。クライバーが演奏するやり方は、最初の楽章のヴィヴァーチェアレグロのようなものです。ヴィヴァーチェは、テンポと同じくらい気分を示すものではないでしょうか?

デイヴィッド・グットマン[DG] どこから始めれば?。それは私が期待する議論の口火ではまったくなく、そのような控えめな評価には賛同できません。私は、RO の反応の一部の背後に「新しさ」のショックを感じます(ピリオド演奏はのちに登場しました)。彼の留保の——そしておそらくあなたの——いくらかは、元の録音の奇妙にフォーカスした(マルチマイクではなく、むしろ「ほこりっぽい」)音響から派生しているとも思う:RO は、その疑う余地なく象徴的な第五と合わせてリリースされた CD(95年5月)についてもっと熱心に思えた[*2]。私が自分の考えを整理することに問題があるとすれば、非常に多くの競合するクライバーのバージョン、一部は「海賊版」の到来によって波紋を投げかけられたからです。第七は最後まで十八番であり続け、この気難しい巨匠が公式にプログラムにした最後の作品——最後に指揮した曲ではないが——です。おそらくあなたは彼のコンセルトヘボウの DVD を好むのでは?。

AF-C そうですね、まずは、「ほこりっぽい」音質に同意します。私は、あなたがちょうど触れた1995年の DG オリジナルズのリマスタリングで聴いており、さらにはそれは、エンジニアが AM ラジオで聞かれることを意図しているかのように、まったく無色です。

DG 最近の SACDBlu-ray でのハイエンドの改良は、サウンドをフレッシュにし続けています。私は SACD の CD レイヤーが、1976年に RO が述べた「質素な、アスレチックな」性質をある程度洗練し、あなたがそこで手にした再発よりも良いと推測している。

AF-C たしかにあなたは正しい、デイヴィッド。しかし、この音響的な改良は、その解釈を際立って照らし出すでしょうか?。私はむしろそれを疑います。RO の反応が「新しさのショック」を反映していることも疑わしい。1976年においてさえ、クライバーの解釈はそれほど非正統的ではなかった。RO は、その現代的なアスレチック主義がクライバーの父エーリヒによるデッカ録音、同様にトスカニーニRCA のための見事な1936年の演奏に「密接にモデル化されている」と指摘しています。そして、もちろん、トスカニーニの録音は AM 放送を対象としていましたが、豊かな喜びと驚きを伝える——したがってエンジニアリングは問題ではありません。クライバーのコンセルトヘボウ DVD でのサウンドもパッとしないですが、その演奏はもっと感情に訴えますし、オルフェオでのバイエルン国立管弦楽団との演奏もそうです。バイエルンとで、あたかも飛び込むのを待ちきれないかのように、クライバーがヴィヴァーチェの最初のフォルティッシモフェルマータから爆発するのが大好きです、VPO とではルーティーンに聞こえる。

DG 私は少しもルーティーンとして DG のバージョンを聴いていないが、あなたが言わんとしていることを理解はできます。クライバーは長期的視野をとります。彼の最初の楽章の主部は、ヴァーグナーの舞踏の神話ではなく、戦闘的に持続するリズムのエクササイズになります。そのため他の読みは、より多くの付随的な楽しみをもたらします。そして彼のそれほど遅くない(明らかにエーリヒ・クライバーから継承された要素による)遅い楽章は、意図的に冷ややかで抽象化されているように感じます。しかし、それはスケルツォとフィナーレの興奮をより大きく浮き彫りにしませんか?。私は、似たような勢いをひき起こすことをエーリヒからは何も聴いたことがありません。私はまた、刈り込まれた弦楽器のサウンドと両翼配置されたヴァイオリンとの組み合わせが実に稀であり、おそらくこの時期唯一であったことも強く主張します。録音は今40年(あまりちょうど)たっています——当時のトスカニーニのと同じくらい古い。最初の楽章の提示部のリピートは、ほとんど規範でもありませんでした。アムステルダムの DVD はこれらすべての点で妥協しています。[続く]


イッセルシュテットが引き合いに出されていたのが少々意外といえば意外。英国人=デッカ贔屓という訳でもないでしょうが、というかこの当時ウィーン・フィルのステレオ録音というと…って結構ありますねデッカにもショルティ(1958年)、カラヤン(1959年)、アバド(1966年)、DG にベーム(1972年)、クーベリック(1974年)あたりですか。さすがにメジャーどころが並びますが、クーベリック以外は各自のディスコグラフィにおいて代表的な第七という訳でもないんでしょう。上記の音盤や記事で言及されているトスカニーニもエーリヒも未聴なのだから話にならないが、カルロスとイッセルシュテットは手元にあるので久々に聴き直してみた(ことに後者は超久々)。

録音/マスタリングともイッセルシュテット盤の方が古いのだが *3 、一聴、録音のみずみずしさに耳を奪われる。また、オズボーン氏のいう「中欧的テクスチャー」とは、どっしりとバスを利かせたピラミッド型バランスのことであろうと即察せられる。録音もあるのかティンパニもガツンと強打され、そこからゴリゴリとしたバスに至るまでの音価のウェイトの受け渡しが非常によい。クライバーの方は、実に爽快ですが。

アレグレットでのカルロスのテンポは今では標準的なんでしょうかね。対してイッセルシュテットはずいぶんと遅い。どっしりとしたグランドスタイル。さすがにフルトヴェングラーのようにはならないが、ここでもエッジの効いたバスの響きが効果的で、ひとことでいうと「より遅くて壮大」、ドラマがある。また録音の差はピチカート部分などますますあらわになり、こうして比較してみるとクライバーの方はレゾナンスをまったく感じさせずスカスカでいかにも残念なかんじ。

イッセルシュテットは三楽章もプレストにしては遅い。そのぶん四楽章の「生き生きと快活に」との対比の効果はありますが、後者の指定は「生き生きと快活」なアレグロアレグロ・コン・ブリオ)なんですよね。快速なクライバーがトリオの入りの「アッサイ・メノ・プレスト」からずいぶんと遅くなるのはオズボーン氏も指摘のとおり *4 。その後のコンセルトヘボウとのライヴや下記などでは行なっていません。クライバーの四楽章、これはもう録音などどうでもよくなりますねぇ。

そんなんで(?)、テレビ放映の映像アップされてたようですが FM 中継からの音源アップしてみた。いずれにせよ CT の再生環境残念なんでアレですが。

(こちらも続く)


*1:ぜんたいにこなれてないのはご勘弁いただくとして何度か登場する “spare”/「質素」等しっくり来ませんが(痩せた、引き締まった?)、とりあえず。カナ書きした “athletic" は「体育会系」といったところでしょうか。

*2:下記か。第五の方の2005年4月記事は発見できなかった。

*3:1969年録音、マスターの制作年は明記されていない。CD 自体は1994年の製作だとおもうのだが、バックインレイには 90・7・5 の日付らしき印刷がある(キングレコード)。クライバーは2003年マスターによる SACD シングルレイヤー(日ユニバーサル/2010年)

*4:速度指示どおりですが、併記のメトロノーム記号だと付点二分音符=132→二分音符=88から二分音符=84へという指示なんですね。四楽章は二分音符=72。

チック・コリア/スペインで「スペイン」(2018年)

Chick Corea Akoustic Band © lolo vasco_53 Heineken Jazzaldia_Trinitate Plaza / Square / Place

追記:ジャサルディア公式 flickr より。下記チャンネルに90分近くの動画(オフィシャルな収録と思われます)がアップされていたのですが、当記事エントリ後すぐに削除(無念)、とりあえず差し替えました。さらに追記(2018年1月30日):復活(?)していたので動画へのリンク戻しました(下記)。

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ベタですが(笑)。偶然目にしました。ことしの7月29日、ジャサルディア(Jazzaldia/サン・セバスティアン国際ジャズ・フェスティバル)のライヴ。情報に疎い当方このトリオがさいきんも活動してるとは知りませんでした。チックはいろいろトリオがあってどうなってるのか知りませんが。

エレクトリック・バンドは当時ちらっと一聴しただけでハード・フュージョン(?)てなかんじが苦手でまったく聴きませんでした(浅い)。アコースティック・バンドやってもアコースティック・フュージョン(?)だろノーサンキューていう感じ。こちらもまったく耳にせず。浅い。じつに浅い。

今さらですが(何年経ってんだよ)よいですね(爆)。カチッとしたタイトな演奏がカッコイイ。このメカニカルな疾走感。チック独特の音の洪水が押し寄せてくる目くるめく感覚がよみがえる。

一曲目「モーニング・スプライト 」、チックらしい親しみやすいがどこかトリッキーなややこしい曲。リズムセクションのソロになったときのバッキングや受け渡し、三人のインタープレイ、いいっす。会場を意識してか(?)ややソフトめの曲が多いか。パティトゥッチがけっこうアルコ弾いてます。もっとゴリゴリなハード・ジャズ(?)聴きたかったですが D・スカルラッティソナタ演ったり(ニ短調 K.9 L.413 ですね)。ラストは「あなたと夜と音楽と」。もう入りからいいですね。

「みんなのために「スペイン」の新品のアレンジがあるんよ」。「スペイン」はアンコールで登場( 1: 07:07 - )。「今夜はみんなのためにもっとスコアのように、もっと彼が書いたように演奏してみたい」ということで『アランフェス協奏曲』拡大版。スペインに流れ込む展開がイカしてます。「最後にサン・セバスティアン合唱団を招待」?、そういうことすかご愛敬(当方もナゾかけするほどのことではないんですが)。