dancept2の日記

あやしうこそものぐるほしけれ

パーヴォ・ヤルヴィ:N 響はもっちもち(?)

と訳すのであれば “chewy” でしょうか。N 響三年ぶりのヨーロッパ・ツアー(2020年二月/三月、七か国九都市)を前にした、英国で「2008年1月に創設されたクラシック音楽ライブのための最大のサイト」*1Bachtrack 掲載の Alexander Hall によるインタビュー記事(英語)。

すでに感染が広がっていたイタリアは含まれていなかった様子の同ツアーは、COVID-19 の影響が広がるギリギリ直前に日程を終えた。共演の人気ソロイストにも助けられ(?)、ハードスケジュールだったようだが口の悪い英国などのプレス含め、まずまず好評だったようだ *2 。記事はそのプロモーションということになるが *3 、パーヴォが日本の音楽家に関する「神話と誤解」について語る。[]は訳者追記。例によって訳の精度やこなれていないのはご容赦。


神話と誤解:パーヴォ・ヤルヴィNHK 交響楽団

2019年12月4日、アレクサンダー・ホール

コンニチハ。日本の音楽家に関する誤解のいくつかを払拭するのに苦心しているパーヴォ・ヤルヴィには、何のためらいもない:「私たちは自分自身の偏見を検証する必要があります」と彼は言う。2015年からの NHK 交響楽団の首席指揮者として、また20年以上の日本における指揮経験から、わかっているのだ。ロンドンでの幅広い会話のなかで、彼はベルリンのような場所でのフィルハーモニカー、同様にシュターツオーパー、あるいは彼が現在さらに任にあるチューリッヒのトーンハレで、コンサートマスターである著名な個人を指摘した。それで皮肉っぽく続ける、彼らはヨーロッパのオーケストラの、そのように数少ない役職にじゅうぶんなだけかもしれない——一部の怠惰で誤った思考を仄めかすために眉をひそめる——しかし、世界最高水準を目指すオーケストラに丸ごと日本人が顔を揃えたら?。それは機能し得るのか?。

端的に言えばそのとおりである。非常に頻繁に、そしてこれはとくに若い演奏家に当てはまるのだが、彼らを日本で最初に教えた教師たちは、すでに世界中で音楽の見識を身につけており、彼ら自身もドイツ、ロシア、フランス、イタリア、イギリスのヨーロッパの伝統の中心で学び、加えて数々のマスタークラスに参加している。技術的な品質は間違いない。しかし次なる先入観の例が来る:「ああ、だけど彼らは理解せずに演奏する」。

ヤルヴィは、彼のオーケストラに関する神話を打ち破ろうと決意している。N 響が古きドイツのあらゆるものを崇拝しているからこそ、中核となるレパートリーに素晴らしい伝統が築かれてきた。20世紀後半に定期的に訪れたのは、ヘルベルト・フォン・カラヤンのみならず、オトマール・スウィトナーホルスト・シュタイン、どちらも信頼できるカペルマイスターのすべての資質を体現していた。辛抱強くリハーサルする方法を知っており、オペラハウスで歌手と呼吸するという貴重な経験を積み、大規模なロマン派作品にふさわしいサウンドをつくりたいという明確な考えを持っていた。再度訪問すると、彼らは同じ曲に何度も何度も戻るのだった。ヤルヴィは、ヴォルフガング・サヴァリッシュ—— N 響の指揮者として40年近くを過ごした——をリヒャルト・シュトラウスの作品理解を深める上でとくに影響していると指摘する。そして、このオーケストラのサウンド、マエストロ・ヤルヴィ、それは実際にはどうですか?。「ダーク、非常にレガート、非常にテヌート、非常にソステヌート」。彼がどこか他所で見るような全体に軽くて速い演奏とはいくぶん隔たっており、表現力の程度を説明するのに彼は「粘着性[glutinous]」という言葉さえ使用する。

自明のことだが、N 響は放送交響楽団であるという大きな強みがある。おもに日本の一般市民から資金を得ており、音楽家への支払いは日本のほかのどのオーケストラよりも多く、通常、公務員にしか与えられないような仕事の保障を享受している。このような安定性は、N 響がアジアのトップ・オーケストラであるだけでなく、紛れもなく、ヤルヴィによれば、国際的にトップ・ランクの一員であることを理解する上でのひとつの要因である。これは、2017年の前回のヨーロッパ・ツアーでマーラー第六の素晴らしい演奏を聴いた人なら驚くことではないだろう。しかし成功を説明する助けとなるものがほかにもある。彼が言うように、それは「驚くほど規律のあるアンサンブル」である。これは、ドイツの非常な超効率性の発想を顔色なからしめる、「組織が芸術に変貌する」日本社会全体の反映の一部である。オーケストラ全員が、明瞭さ、相互尊重および垂直的一体性の概念を自動的に受け入れる。例えば、まれな揉めごとの場合には、誰がどの手続きに従うべきかはつねに明確である。ほかの多くのアンサンブルと同様に、N 響には独自のオーケストラ・アカデミーがある[*4]。

このように確固とした伝統の中核を背景にして、ヤルヴィは彼が就任したときに何か変更を加えなければならないと感じたのか?。ここで彼は、日本社会についての西洋の概念を覆す別の機会をつかむ。確かに日本の国際的な顔は高度なテクノロジー国家のものだが、それは全体像の一部に過ぎない。この国の広大な区域には公共の Wi-Fi アクセスがない。この国はめったに外向きにならず、代わりに他の人が来ることを期待する。彼は、オーケストラに FacebookTwitterInstagram アカウントがないことを知り、非常にショックを受けた。それが現在は、ソーシャルメディア上での活発な存在感がオーケストラの国際的知名度を高めるのに役立ち、オーケストラに起こっているどんなことにも反応する国内フォーラムを提供することにより、すべてが変化している。コンサートの定期的なテレビ・ラジオ放送は、すでに高度な可視性を提供している。しかし驚くべきことは、すべてのコンサートが、まだ市販されておらず Blu-ray で利用可能なものをはるかに超える規格に合わせ、超高解像度で撮影されているという事実である。これは日本が技術開発に遅れずについていく方法の一例に過ぎない。

Myths and misunderstandings: On Paavo Järvi’s relationship with the NHK Symphony | by Bachtrack for classical music, opera, ballet and dance event reviewsPaavo Järvi and the NHK Symphony Orchestra
© Belinda Lawley

来年のヨーロッパ・ツアーに先立ち、N 響が持ち込むレパートリーについて尋ねた。これにはブルックナーの第七が含まれる。神話を一掃するもうひとつの機会:ひび割れた日本のオーケストラでは、おそらくオーストリア・ドイツのレパートリーの、このような礎石について興味深いことを言うことはできないという考え。もしそうであるならば、「なぜアメリカのトップ・オーケストラがパリでドビュッシーを演奏するという考えを受け入れるのか?。あるいはロシア以外のオーケストラがチャイコフスキーを試みるのは?」。会話は、ヤルヴィの個人的なお気に入りで、ツアープログラムの一部である武満の作品、『ハウ・スロー・ザ・ウィンド』に移る。「それは」、彼は言う、「オーケストレーションに非常に雰囲気があり、美しい色彩に満ちている。私が気に入っているのは、ある種のオリエンタリズム、すぐにそれが日本人ではないかと思わせるような音楽。武満は終わりのないモチーフを与える:決して終わりを遂げることはないのです」。『ノスタルジア』や『ヴァイオリン協奏曲』など武満の作品のみを扱う発売間近の CD を考えると、前半を日本人の作曲のみでプログラムすることはできないのだろうか?。しかしここで西洋のコンサート・プロモーターの商業的圧力が、こうした野心を避けるために介入する。聴衆はスタンダードな作品を期待し、また、国際的に認められたソリストがスタンダードな協奏曲を演奏することを期待する。

ある世代から次へと通常受け継がれる大きなサブスクリプションの基盤が存在するにしても、ある程度はホームでのプログラム構成の要件に似た、保守主義が組み込まれている。「ブラームスブルックナーシュトラウスあるいはマーラーの作品を公演すればコンサートは完売が保証される」。とはいえ、ヤルヴィは音楽的日常を拡張し、N 響のレパートリーを広げることに熱心である。彼はすでにシベリウスとニールセン、加えてメシアンの『トゥランガリラ』交響曲を行ない、ロシア音楽の探求を進めてきた。しかし、ここで彼は、N 響に限らずほば普遍的な演奏の問題に出くわすことを認める。最近の演奏家は美しいサウンドを目指しているが、ショスタコーヴィチではピッコロは「下手な軍隊ホイッスル」のように聞こえなければならず、木琴はバッハにより想像されるマリンバ協奏曲との共通性は少なく、誰かの頭を固い棒で叩くという発想により近い。彼は巧みに付け加えた、「すべてはスコアにあるにも関わらず、スコアには何もありません」。

ヤルヴィと彼の演奏家との特別な関係について尋ねる。ほとんどの芸術的パートナーシップのように、それはつねに進化している。彼が言うように、室内楽の最高の性質を特徴付ける音楽づくりのような、「想像力を解放する」という表現の自由をさらに促すことを目指している。ラヴェルの『ダフニスとクロエ』の重要なフルート・ソロに関しては、彼はつねにこう言う:「どう演奏するか聞かないで。私はあなたが演奏したい方法で演奏できるようにするためにここにいる」。その意味で、彼は自分自身を進行役と見なしているが、すべてのオーケストラには指揮者が必要だとも主張している。それはなぜか?。こんにちの音楽家は、こうした幅広いレパートリーに精通していることが期待されているため、個々の作品内で理想的な理解と全体像の深さを持つことは不可能である。彼は、他所のオーケストラのなかでのほとんど無頓着な見解を引き合いにする。「ブラームスの第一?、ああ、はい、ブラームスの第一ね、知ってますよ」。しかし、ブラームスの第一を「知っている」ことと、ほんとうに知っていることとのあいだには大きな違いがある。彼は最近スカラ座で行なった『ドン・ジョヴァンニ』の10回の演奏公演を思い起こす。そこではピット内のすべての音楽家たちが、語られたレチタティーヴォすべての言葉を知っていた。「50年間毎年ブラームスの第一を二十回演奏すれば、あなたはそれを知っています!」

しかし、ヤルヴィにとって目を引くのは信頼の問題である。彼は、指揮者によってつくり出されるマジックのジャーナリスティックな概念にはほとんど時間を割かない。演奏家との真の音楽的・人間的つながりについてがすべてである。彼の音楽家たちが指揮台の彼から絶対的な信頼性を目にすることができれば、彼らは本能的に従うだろう。そのいっぽう彼は、リハーサル中つねに完璧に準備され、完全に注意を集中するオーケストラに惜しみない絶賛を送っている。「それがプロ意識ならば」、と彼は言う、「誰も彼らを打ち負かせません」。アリガトウゴザイマス、マエストロ・ヤルヴィ!。

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この記事は NHK 交響楽団により提供された。


*1:“About us | Bachtrack”(英語

*2: N 響ウェブサイト「ニュース」にツアー各地のコンサート・レビューが掲載されている。

www.nhkso.or.jp

*3: N 響提供とある。よくある形態だろうがきちんと(?)断り書きを入れるのに少々感心したりする。

*4:逆にいまや「神話」では?などと思ったりしていたドイツ音楽の「伝統」だが、「オーケストラ・アカデミー」ともども『英国ニュースダイジェスト』による篠崎史紀コンマスのインタビューでも触れられている。そういえば上掲 *2 のどのレビューだったかは忘れたが、マロさんの貫禄ある風貌(?)は現地ジャーナリストにも印象的だったようだ。

web.archive.org

また、パーヴォのインタビューに N 響のサラリーについての言及があったが、(相当むかしのハナシだがクレンペラーが文句を言っていた)ウィーン・フィルではないのだから、指揮者にも相当な条件を提示していた/しているのだろうな、などと下種なことを考えてしまった。公共放送たる「みなさまの NHK 」本体の方のギャラは、かなり渋いようですが。