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あやしうこそものぐるほしけれ

英グラモフォン誌:カルロス・クライバーのベートーヴェンの第7の録音は、その「古典」の地位に値するのだろうか?(その一)

“Classics Reconsidered: does Carlos Kleiber's recording of Beethoven's Seventh deserve its 'classic' status?”、ちと古いですが英『グラモフォン』誌四月号より(前半)*1 。なんで今この録音?かといえば「古典再考」というシリーズだそう。


古典再考:カルロス・クライバーベートーヴェンの第7の録音は、その「古典」の地位に値するのだろうか?

グラモフォン 2018年5月14日(月)

アンドリュー・ファラク=コルトンとデヴィッド・グットマン、クライバーのDGへのウィーン・フィルとのベートーヴェンの第7の録音の長所と短所をめぐり意見が対立。

Classics Reconsidered: does Carlos Kleiber's recording of Beethoven's Seventh deserve its 'classic' status? | gramophone.co.uk

オリジナル・グラモフォン・レビュー、1976年9月より...

ベートーヴェン 交響曲第7番

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団カルロス・クライバー(DG)

クライバーの第七交響曲は、彼の第五よりはるかに多くの議論をひき起こすのは明白であり、水路の両岸へ意見を分かつ運命にある、と私は思う。解釈としては、彼の父親のすばらしい読みを綿密にかたどっている(むしろここを弱々しくする、同じく議論をひき起こすアレグレットへのピチカート終結さえある)。だが一般的なスタイルと熱気において、この演奏は1936年の古典的なトスカニーニのセットに倣っている。ウィーン・フィルハーモニー・サウンドでの過剰な音色[excess tone]はかけらも残っていない。シュミット=イッセルシュテットの美しく演奏された(そして優れて文法的な)デッカの読みを際立てている中欧的テクスチャーがなくなっている。録音さえも気後れしているように質素[spare]で単色に思える。フィナーレは、疑いもなく、名演である。私がここで違和感を覚えるのはただ一つだけで、木管楽器が跳躍する第二主題を扱うごとのクライバーの奇妙な緊張緩和である。スケルツォも極めて説得力があり、トリオは遅いが全体は非常に速く、(指示された)ヴァイオリン旋律のニュアンスに欠け、この点ではクライバーの読みをトスカニーニエーリッヒ・クライバーのよりかなり表情に乏しいものにしている。とはいうものの、どうして叙情的な第七にする必要があろう?。クライバーが正しく見抜いたように、それは質素な、アスレチックな作品なのであり、部分的に叙情的なディオニュソス精神の祭典、それでは生気もないではないか?…これは手に入れられ議論されるべき第七である。あなたはそれを完全に納得できる、あるいは完全に説得力のあるものとはしないかもしれないが、我々をこの偉大な作品の本質的な精神に、ときにまごつかせるほど近づける、紛うことのないじゅうぶん稀な現象なのである。リチャード・オズボーン

レコーディング、再考...

アンドリュー・ファラク=コルトン[AF-C] リチャード・オズボーン[RO]は、カルロス・クライバーによるベートーヴェンの第五交響曲の DG の録音(75年6月)に完全に圧倒されていました——無理からぬことです。なるほど、デイヴィッド、あなたと私は2005年4月に遡るまさにこの雑誌で RO の評価とその録音の今や伝説的な地位を擁護し、いっぽうロブ・コーワンは留保を表明しました。今回、ロブなしで、我々はクライバーの第七の価値を再考しています。RO はこの録音にあまり熱心ではなかったし、私自身再び同意見であることに気づきます。確かに、私はクライバーの解釈のエネルギーと力強さを賞賛しますが、それは中途半端に堂々と[monumental]しています。( RO が言及している)ハンス・シュミット=イッセルシュテットは、出来事やキャラクターに満ちているとともに、より遅くて壮大です。クライバーが演奏するやり方は、最初の楽章のヴィヴァーチェアレグロのようなものです。ヴィヴァーチェは、テンポと同じくらい気分を示すものではないでしょうか?

デイヴィッド・グットマン[DG] どこから始めれば?。それは私が期待する議論の口火ではまったくなく、そのような控えめな評価には賛同できません。私は、RO の反応の一部の背後に「新しさ」のショックを感じます(ピリオド演奏はのちに登場しました)。彼の留保の——そしておそらくあなたの——いくらかは、元の録音の奇妙にフォーカスした(マルチマイクではなく、むしろ「ほこりっぽい」)音響から派生しているとも思う:RO は、その疑う余地なく象徴的な第五と合わせてリリースされた CD(95年5月)についてもっと熱心に思えた[*2]。私が自分の考えを整理することに問題があるとすれば、非常に多くの競合するクライバーのバージョン、一部は「海賊版」の到来によって波紋を投げかけられたからです。第七は最後まで十八番であり続け、この気難しい巨匠が公式にプログラムにした最後の作品——最後に指揮した曲ではないが——です。おそらくあなたは彼のコンセルトヘボウの DVD を好むのでは?。

AF-C そうですね、まずは、「ほこりっぽい」音質に同意します。私は、あなたがちょうど触れた1995年の DG オリジナルズのリマスタリングで聴いており、さらにはそれは、エンジニアが AM ラジオで聞かれることを意図しているかのように、まったく無色です。

DG 最近の SACDBlu-ray でのハイエンドの改良は、サウンドをフレッシュにし続けています。私は SACD の CD レイヤーが、1976年に RO が述べた「質素な、アスレチックな」性質をある程度洗練し、あなたがそこで手にした再発よりも良いと推測している。

AF-C たしかにあなたは正しい、デイヴィッド。しかし、この音響的な改良は、その解釈を際立って照らし出すでしょうか?。私はむしろそれを疑います。RO の反応が「新しさのショック」を反映していることも疑わしい。1976年においてさえ、クライバーの解釈はそれほど非正統的ではなかった。RO は、その現代的なアスレチック主義がクライバーの父エーリヒによるデッカ録音、同様にトスカニーニRCA のための見事な1936年の演奏に「密接にモデル化されている」と指摘しています。そして、もちろん、トスカニーニの録音は AM 放送を対象としていましたが、豊かな喜びと驚きを伝える——したがってエンジニアリングは問題ではありません。クライバーのコンセルトヘボウ DVD でのサウンドもパッとしないですが、その演奏はもっと感情に訴えますし、オルフェオでのバイエルン国立管弦楽団との演奏もそうです。バイエルンとで、あたかも飛び込むのを待ちきれないかのように、クライバーがヴィヴァーチェの最初のフォルティッシモフェルマータから爆発するのが大好きです、VPO とではルーティーンに聞こえる。

DG 私は少しもルーティーンとして DG のバージョンを聴いていないが、あなたが言わんとしていることを理解はできます。クライバーは長期的視野をとります。彼の最初の楽章の主部は、ヴァーグナーの舞踏の神話ではなく、戦闘的に持続するリズムのエクササイズになります。そのため他の読みは、より多くの付随的な楽しみをもたらします。そして彼のそれほど遅くない(明らかにエーリヒ・クライバーから継承された要素による)遅い楽章は、意図的に冷ややかで抽象化されているように感じます。しかし、それはスケルツォとフィナーレの興奮をより大きく浮き彫りにしませんか?。私は、似たような勢いをひき起こすことをエーリヒからは何も聴いたことがありません。私はまた、刈り込まれた弦楽器のサウンドと両翼配置されたヴァイオリンとの組み合わせが実に稀であり、おそらくこの時期唯一であったことも強く主張します。録音は今40年(あまりちょうど)たっています——当時のトスカニーニのと同じくらい古い。最初の楽章の提示部のリピートは、ほとんど規範でもありませんでした。アムステルダムの DVD はこれらすべての点で妥協しています。[続く]


イッセルシュテットが引き合いに出されていたのが少々意外といえば意外。英国人=デッカ贔屓という訳でもないでしょうが、というかこの当時ウィーン・フィルのステレオ録音というと…って結構ありますねデッカにもショルティ(1958年)、カラヤン(1959年)、アバド(1966年)、DG にベーム(1972年)、クーベリック(1974年)あたりですか。さすがにメジャーどころが並びますが、クーベリック以外は各自のディスコグラフィにおいて代表的な第七という訳でもないんでしょう。上記の音盤や記事で言及されているトスカニーニもエーリヒも未聴なのだから話にならないが、カルロスとイッセルシュテットは手元にあるので久々に聴き直してみた(ことに後者は超久々)。

録音/マスタリングともイッセルシュテット盤の方が古いのだが *3 、一聴、録音のみずみずしさに耳を奪われる。また、オズボーン氏のいう「中欧的テクスチャー」とは、どっしりとバスを利かせたピラミッド型バランスのことであろうと即察せられる。録音もあるのかティンパニもガツンと強打され、そこからゴリゴリとしたバスに至るまでの音価のウェイトの受け渡しが非常によい。クライバーの方は、実に爽快ですが。

アレグレットでのカルロスのテンポは今では標準的なんでしょうかね。対してイッセルシュテットはずいぶんと遅い。どっしりとしたグランドスタイル。さすがにフルトヴェングラーのようにはならないが、ここでもエッジの効いたバスの響きが効果的で、ひとことでいうと「より遅くて壮大」、ドラマがある。また録音の差はピチカート部分などますますあらわになり、こうして比較してみるとクライバーの方はレゾナンスをまったく感じさせずスカスカでいかにも残念なかんじ。

イッセルシュテットは三楽章もプレストにしては遅い。そのぶん四楽章の「生き生きと快活に」との対比の効果はありますが、後者の指定は「生き生きと快活」なアレグロアレグロ・コン・ブリオ)なんですよね。快速なクライバーがトリオの入りの「アッサイ・メノ・プレスト」からずいぶんと遅くなるのはオズボーン氏も指摘のとおり *4 。その後のコンセルトヘボウとのライヴや下記などでは行なっていません。クライバーの四楽章、これはもう録音などどうでもよくなりますねぇ。

そんなんで(?)、テレビ放映の映像アップされてたようですが FM 中継からの音源アップしてみた。いずれにせよ CT の再生環境残念なんでアレですが。

(こちらも続く)


*1:ぜんたいにこなれてないのはご勘弁いただくとして何度か登場する “spare”/「質素」等しっくり来ませんが(痩せた、引き締まった?)、とりあえず。カナ書きした “athletic" は「体育会系」といったところでしょうか。

*2:下記か。第五の方の2005年4月記事は発見できなかった。

*3:1969年録音、マスターの制作年は明記されていない。CD 自体は1994年の製作だとおもうのだが、バックインレイには 90・7・5 の日付らしき印刷がある(キングレコード)。クライバーは2003年マスターによる SACD シングルレイヤー(日ユニバーサル/2010年)

*4:速度指示どおりですが、併記のメトロノーム記号だと付点二分音符=132→二分音符=88から二分音符=84へという指示なんですね。四楽章は二分音符=72。